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Higashi Ginza Sweet Life

東銀座は今日も魚そして海の潮の香りがしています。
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本のメモ V・Fアルミニヨン イタリア使節の幕末見聞記

幕末期の開国のためにはるばるやってきた各国の使節が記録した文章には

当時の日本のことが生々しく記載されているとともに、

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、家光などの公方時代の状況、特に宣教師たちを巡る

事件などが記載されていることに驚く。

当時日本に来ていた使節は、遥々遠路を国の威信を背負って渡航してきてるだけあって、

どの文章も聡明で、時に冷徹に書かれているが、記録を書くうえで様々な歴史を学んで

いたことがよく分かる。特に宣教という意味からも、宗教に関しては重要事項だったと

思われ、日本の政の仕組みのみならず、神道に関してはその起源とも言っていいほどの

天照大神のことも記載されているし、印度、中国から渡来した仏教についても神道と融合

されて日本に受け入られたことなども記載されている。

聡明でなければ派遣はされなかったであろうことは、想像に難くないが、

情報が少なかった幕末同時に口頭伝承が中心だった当時のことを鑑みれば、

驚かずにはいられない。

この文章は日本が帝国主義になる、そうきな臭くなる時代の前、

つまり、日本が鎖国をやめ、世界市場に巻き込まれる直前、

大君が大政奉還をする前の頃に書かれている。

もし、この文章が文献のみならず、多くの人の取材から書かれた部分が多いとしたならば、

この頃は、市井の人たちにとっても、信長、太閤、権現がまだ身近だった時代、

そう、それほど遠い昔の話しではなかったということなのだろう。

確かに長州藩の毛利氏は江戸期を外様大名として存在をしていたことを考えれば、

何故に外様になったか?ということを権現、太閤、信長時代の出来事から、

もしくはそれ以前の係わった出来事も長州では連綿と語り続けられてきただろう。

連綿と語られていたから、歴史が近いのだ。

ふと、そんなことを考えた。

 

以下メモ

・イタリアが日本に来た理由

 1865年、イタリア北部の絹の生産高が、蚕の病疾が災いし減少。1858年の日本との条約締結後、仏、英が

 日本から蚕卵が輸入し、収益をもたらしていた。よって日本にイタリアも開港を求めた。

 

・富士山というのはたぐいない山という意味。

 

・日本人はすらすらと文字を書く。

 

・日本の職人は才覚があり、しかも勤勉で優れたところのある品を見ると、自分で同じ物を作り出すまでは

気が済まない。

 

・もっとも貴重な産品のひとつは漆器。

 

・日本人はいつも頭を働かせて、あれこれと工夫をし、無駄な労力を省くことのできる装置を考えるの好む。

 

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